母親節
昨日は母の日でした。中国語では、「母親節」というようです。
私の相互学習の相手の1人の方は、資生堂の化粧品をお母様に贈ってあげたそうで、なんと2000元(約3万2000円)もしたそうですが、いい年して、葉書(中国語では「明信片」)を書いて送ったくらいしかしてません・・・。悪い息子です。
勿論、母への感謝は勿論あるわけですが、我々法曹界の人間にとって、母の日にはもう1つの意味があります。司法試験択一式の試験日です。
いま振り返ると、一瞬でこの年になった気もしますし、ここ語言大学では、若い人たちに無理矢理混じってやっていますので、まだまだ若いつもりではあるのですが、法律家の端くれとしてここまで来るには、意外と長い道のりだということに気付かされます。私が初めて日本の司法試験を受験したのは1998(平成10)年。大学4回生の時でした。それはなんと、今から9年も前のことです。本格的に勉強を始めたのがその半年強くらい前・・・だと思うので、その辺りから数えると10年ということになります。
弁護士になりたいなあ、とぼんやり思った時まで遡ると、更に数年。京都大学の法学部に行きたい、と思うようになった高校3年生の夏前後・・・つまり、1993(平成5)年まで戻ることになります。ここから数えると14年の歳月です。少なくとも40までは迷わずこの道で行こうと、18の時に22年分のことを決めて、もう14年走り、残りが8年強しかなくなってきました。
この14年でやれたこと、本当に「しょぼい」です。まあ、弁護士としての実働(日本のオフィスにいて働いた期間)がおよそ3年8ヶ月くらいしかないので、当たり前かもしれませんが。正直、印象に残る事件って、余りないんです。個々に大事な事件でしたが、すぐに事件のことは思い出せません。ただ、印象に残る発言や人間というのは、沢山あります。
弁護士って皆そうなのか、私には分からないのですが、私の場合は、事件の内容とか法的な分別よりは、事件の依頼者の名前を言われた時の方が、事件内容を思い出せるんですよね。種類とかじゃないんですよね。その事実1つを取っても、「ひと」と「ひと」の間で仕事をさせて貰っているのだなあ、ということを痛感します。
それ以外の重要な転換点を思い出しても、やはり「ひと」が出てきます。
例えば、高校3年生の時、センター試験に失敗し、志望校変更を考えていた時に、初めて私の受験に口を出した母親の一言(31年間通して考えても、この時だけでしたね、母親が何か言ったのは)、とか。
頭でっかちな私に、「えらそうにしたらいけんよお」と何度も敢えて言ってくれた高校の友達の言葉も、すごく心に残っています。
自分が何かをした、というよりは、他人が何かをした、何かを私に話した、そういう方を覚えているのは何故なんでしょうか。
でもこれが万人に当てはまるとしたら、自分では覚えていないけど、自分の言ったことについて、他人は予想外に真剣に受け止めてくれているのでしょうか。私は、よく「デリカシーがない」と言われてしまうし、ちょっと偉そう(?)に説教してしまうので、ちょっと心配になってきました。
そんな心配もありますが、この長い道のりをまさに今から目指そうという人が、昨日沢山受験した訳です。そんな人たちに言いたい。
この仕事、本当にお金とか関係なしにやりたいと思えるなら、まだまだ目指す価値ある仕事だと思うよ、頑張れ!と。
確かに金銭的には辛くなってきたんだと思います。もう誰でも食える時代じゃない。
でも、沢山の人と出会うことができるこの仕事は、やはり、やってて楽しいんですよ、少なくとも私には。
ウチの事務所のボスの1人である四宮という弁護士が、私によく言ってくれたことを思い出します。
「お前は依頼者が育ててくれる。手を抜いたらダメだ。依頼者は言わないけど、良く分かっている。」
特別な言葉ではないのですが、忙しさの余り8〜9割くらいの力で「きれい」に「まとめて」しまいそうになる時に、響く言葉です。
そして仕事だけじゃないなあ、と思います。人付き合い全般にそんな気がします。私という人間は周囲が育ててくれるし、周囲の人は私を含めた他人が影響して成長していくものなんでしょう。
今は仕事を離れていますが、また違う意味で沢山の人と出会うことができます。仕事でも、勉強ででも、もっと沢山のひとと出会って、人間として成長したいなあ、とも思う5月です。
ちょっと分かりづらい文書ですみません。5月病か?