藤本大学~徒然なるままに(弁護士ぎーちのブログ)

ぎーち(弁護士藤本一郎:個人としては大阪弁護士会所属)のブログです。弁護士法人創知法律事務所(法人は、第二東京弁護士会所属)の代表社員です。東京・大阪・札幌にオフィスを持っています。また教育にも力を入れています。京都大学客員教授・同志社大学客員教授・神戸大学嘱託講師をやっています。英語・中国語・日本語が使えます。実は上場会社の役員とかもやっていますし、ビジネスロイヤーだと認識していますが、同時に、人権派でもあると思っています。要するに、熱い男のつもりです。

62回目


 私が書くまでもないと思うが、故郷・広島を想うひとりとして。


 1945年8月6日午前8時15分。広島に1発の原子爆弾が投下された。


 当時広島市の人口は36万人程度だったが、この年の末までに、確認されているだけでその40%にあたる14万人もの死者を出すこととなった。


 言うまでもないことであるが、被爆者は、1945年8月6日の熱線でのみ苦しんだ訳ではない。放射能という恐ろしい目に見えない被害。例えば、「原爆の子」のモデルとなった、佐々木禎子さん。被爆時2歳であった佐々木禎子さんは、被爆時何ら受傷していないように見えたが、原爆で大量に放出された放射線を原因とする白血病によって、1955年、千羽鶴を折りながら亡くなってしまった。


 熱線や放射線だけではない。被爆者の顔に残ったケロイド。人々の心に残った被爆者差別。なお、平和資料館にも資料があるが、被爆者(や被爆二世)が子を産む際に、遺伝的障害を抱えた子供を出産する比率(突然変異率)は、そうではない人と比べて(被爆当時に既に妊娠していた等、胎児そのものが被爆していた場合を除き)いまのところ統計上有意な差が生じている訳ではない。にもかかわらず、根強く残った結婚差別。


 広島は、被爆者は、その二世三世は、被爆62年を迎えた今でも、何らかのカタチで、有形無形の、大小様々な傷を抱えているのだ。


 しかし、当時0歳だった人でも62歳。被爆者の高齢化が進み、いよいよ、原爆を直接受けた被爆者が直接被害を語り継ぐことは難しくなってきた。今こそ、被爆者が何をもっとも重要だと語り、何を訴えてきたかを謙虚に耳を傾けるべきではないか。


 ところで、広島や長崎で不思議なのは、ほとんど誰も、直接、加害者であるアメリカを非難しない。みな原爆を憎み、恨むし、戦争を憎み恨むが、主たる声は、まさに記念碑に書かれているとおり「過ちは繰り返しませんから」ということにある。直接アメリカを非難しないのは、被爆という行為を甘受するからではない。最初から被爆者の願いは、起きてしまったことを憎むのではなく、第3の広島・長崎を生じさせないため、この核兵器たるものを無くすこと、この1点にあったのだ。


 5大国の核保有容認という二重基準が、結果的に、インド、パキスタンイスラエル、そして北朝鮮やイラン等への核拡散を生じさせてしまった。勿論、全て一気に核廃絶が進むとは、誰も思っていない。核抑止論という理論が現実に存在し一定の力を持っているという現状を直視せずに、核廃絶がなされることはないだろう。誰も、明確なロードマップを持っている訳ではない。しかし、いま明確なロードマップを持っていないからといって、核廃絶なんて無理だと言って諦めてしまっていいのだろうか?もしも、唯一の被爆国である日本が諦めてしまえば、一体誰が、かかる被害を訴え、第3の広島・長崎の出現阻止に本気で動くだろうか。解答は最初から用意されていなくても、疑問がそこにあるなら、解答のための道筋を、悩みながら模索するしかない。理想論だけではダメでも、最初から、五大国に言われるがままである必要はない。


 個人の目標を達成する時のことを考えて欲しい。
 例え無理な目標でも、目標があることで頑張れて、仮に目標達成が無理であった時であっても、目標がない時よりも良い結果が出せることがある。「甲子園出場」という目標は達成できなくても、真剣にそれに向けて努力したことで、本来の実力を超えて県大会ベスト8まで行けたということがある。まず理想や目標があることというのは、それだけで意味があることなのだ。決してこれは個人の話だけではない筈だ。


 私にいまできることは決して大きくはない。それは辛いことでもある。
 しかし私は絶望していない。被爆者と同じように、ただ語り継ぐことにも力がある。ただ友達を平和公園に案内することにも、力がある。


 大事なことは、諦めないことだと思う。


 平和公園の火は、世界から核兵器が廃絶された時に消されることになっている。
 私の理想であり目標は、その実現である。それが現実的に容易であると思っている訳ではないが、ウソでも繰り返し言い続ければ、実現するかもしれない。