この国の余裕は何処へ
ここ数日飛んでくる色々な情報や違和感から、あれこれ考えていた。うまく表現できるか分からないが、書いてみる。
1.我が国の博士課程進学者数が減少傾向にあり、他の殆どの国が増加傾向にある中で、進学者数において差をつけられつつあること。
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2017/07/24/1386653_05.pdf
2.「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。」(日本学術会議法17条)「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。」(同7条2項)と規定されているところ、菅総理が推薦された6名の学者を任命しなかったことが問題となったこと。
特に、菅総理を擁護する言論の中で、「日本学術会議」や、もともと日本学術会議法にて規定されていた「日本学士院」が「老人クラブ」であって無意味だという言説を支持する人が比較的見受けられたこと。
3.これは別に特別な話ではないけど、周囲を見ていて、比較的「医者」「弁護士」といった資格は大事にするけど、学位を大事にしないような風潮があるように感じられること。
上述した3つは、全部つながっていると感じる。
僕の愛する日本という国が、世界から益々取り残され、「ガラパゴス化」が進む。それが「独自の発展」であれば良いけど、そうでなく、取り残されてしまうのではないか、そういう悪い兆候だと感じる。
要するに、「知に対するリスペクト」がなさ過ぎる。資格試験とか「誰でも頑張れば挑戦できる」程度の獲得(僕も、そのレベルでしかできていません。)に過ぎない。博士とは、ある特定の学術分野において、長い時間をかけて、新しい研究、新しい発見をする者であり、その数は、その国の研究や発見の数に直結するであろう。特に重要だと思われるのは、「学術」分野においての研究・発見ということになるので、必ずしも近視眼的な実益とは直結しない研究・発見も多く含まれるであろうということである。中長期的に見れば、そのような研究や発見が社会の変革を後押しすることがあり得る。産業分野においては、利益中心で相対的に近視眼的にならざるを得ないが、アカデミアではそれと異なる基準で研究・発見を行うことができるのである。産業分野とアカデミアが、それぞれ独自の論理で研究や発見を行うことで、総体としての国の力が大きくなっていくものである。
ところが、我が国では、いま、このアカデミアにおける知が軽視されている。たしかに「いま」の生活だけを考えれば、重要ではないのかもしれない。そして、いまこの国に余裕がないのかもしれない。また、そのような博士を目指すような、あるいは、博士である人間というのは、日本国民全体からすればごく少数の「エリート」であって、博士のために政治をしても選挙で票にならないかもしれない。寧ろ、大衆の気持ちを察するなら、選挙対策的にも、「エリート」をやっつけるような政治を行った方が、大衆からの喝采が得られるのかもしれない(まさに文化大革命やナチスによる政治は、その色彩があった。)。しかし、大局的にものごとを考えれば、そういった「エリート」を育てていく、博士に頑張って貰うことは、博士になっていない僕(すいません修士です。)を含めた全ての人の利益になるのだ。「エリート」を馬鹿にする、「特権」だといってけなす政治は、一時的にウケるかもしれないが、この国を弱くするだけの、間違った政治だと思う。心配だ。
最後に、日本学術会議法に戻る。菅総理には、「推薦」された人を「任命」しない権限があると、素直に法律を読めば感じる。「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。」(憲法6条1項)とは、明らかに違う。しかし、歴史的経緯からしても、法文の立て付けからしても、自由裁量で「任命」できるとは解されまい。何故「任命」しないのか、説明責任があるだろう。もっとも、「任命」しないことが行政訴訟で違法とされるかと問われると、法的には違法ではないかもしれない。ないかもしれないが、この国の総理には、この国の未来を明るくするためにも、アカデミア・博士等「エリート」へのリスペクトと余裕を持って貰いたい。姑息な政治的事情で6名の学者を日本学術会議の会員に「任命」しなかったのだとするなら、それはがっかりだし、例え博士と縁のない人にとっても、残念な政治になっていることに、気づくべきではないだろうか。