藤本大学~徒然なるままに(弁護士ぎーちのブログ)

ぎーち(弁護士藤本一郎:個人としては大阪弁護士会所属)のブログです。弁護士法人創知法律事務所(法人は、第二東京弁護士会所属)の代表社員です。東京・大阪・札幌にオフィスを持っています。また教育にも力を入れています。京都大学客員教授・同志社大学客員教授・神戸大学嘱託講師をやっています。英語・中国語・日本語が使えます。実は上場会社の役員とかもやっていますし、ビジネスロイヤーだと認識していますが、同時に、人権派でもあると思っています。要するに、熱い男のつもりです。

妥協で良い場合、悪い場合。


裁判員制度が刑事司法を崩壊させる」
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080819/168233/?ST=manage


 裁判員制度が構想された当初、私は比較的賛成派であったと思います。
 しかし、いまの運用を前提とすると、どうしても賛成することができませんし、この記事にもある通り、ホンネの部分では、「これではまずい」と思っている法曹は多いと思います。


 一番まずいのは、裁判員に「集中」して手続参加して貰うために、真実を発見する目的からすれば不十分な審理しか見せないという点です。数日で判断させるのだと言います。しかも、判断に先立って、自らが見た証人尋問等の記録を後から見ることもできない(速記が間に合わない)し、裁判員登場に先立って行われる争点整理手続の中で排除された証拠には触れる機会もありません。更に、その「厳選」された証拠についても、裁判官のように後で自室に帰ってじっくり見るということが許されません(法廷でしか見ることができない)。いわば、「厳選」された証拠を、「一度切り」の映画でも眺めるような気分で判断する訳です。映画に隠されたヒントですら、何度か映画を繰り返し見てやっと分かる、ということがあるのですが、刑事裁判でそれが許されて良いのかどうか。


 一般人を裁判員として拘束する以上長期間の拘束は難しいという運用面を重視して、真実発見・適正手続を著しく軽視したと言われても、やむを得ないと言わざるを得ません。




 その、ごくごく限られた証拠しか見られない裁判員が、有罪無罪のみならず、事実認定や法律判断を裁判官と一緒になって行います。
 結局不十分な証拠に基づき判断する素人と、それとは全く異なる知識を有する裁判官が短い時間で話し合って1つの判決を出すのですから、どうかなあ、と思ってしまいます。


 米国の陪審制度では、陪審員は有罪・無罪など事実判断を行う評決(Verdict)に限られていて、法律判断、すなわち判決(judge)は裁判官が行います。全く違う立場の人間が一緒に判断をするという矛盾もなければ、それぞれの長所を生かした判断を行うことに徹することができます。


 一事不再理も異なります。
 米国では、一事不再理が広く認められ、一審で無罪となれば控訴できません。つまり、陪審員の無罪に大きな意味があります。ところが我が国の一事不再理によれば、高裁は確定していない一審無罪を覆すことができます(その意味では、例の三浦被告は、米国流に言えば「三事」も裁判を受け、現在「四事」目ということになります)。そうすると、ただでさえ頼りない裁判員の入った判決が、どんどん高裁で覆されるということになり、裁判員制度自体が無力化する可能性があります。これを恐れて高裁が逆に一審破棄に慎重になるなら、それはそれで問題が生じます。


 素人の視線を刑事裁判に生かす、これは良い事だったと思います。
 しかし問題は、真実発見と適正手続の実現という刑事司法の2つの目的を「妥協」させて裁判員制度を導入してしまったことです。刑事裁判は、「疑わしきは被告人の有利に」しなければいけない制度であって、妥協で有罪にしてしまうようなことがあってはならない筈なのです。


 このような妥協的な傾向は、何も裁判員制度に限りません。
 いま「取調の可視化」という名目のもとで、取調を録画する動きが広まりつつあります。
 これはこれで良いことかもしれませんが、そもそも取調に弁護士が立ち会えないという根本的問題に切り込まずに、検察と妥協できる場所で妥協してしまっているという感が拭えません。


 私は、徹底したディスカバリー手続を有しない日本の民事裁判制度を「箱庭訴訟」と評することがありますが、しかし民事裁判は、経済合理性も求められる訳ですから、個人的には違和感があるものの、国民の多くが真実発見より経済合理性を優先させるというのであれば、その「妥協」はやむを得ないと思ってなんとか納得しています。しかし、刑事手続は、性質上「妥協」してはならないものだと思います。